【社会】自衛隊員の死が現実味 国民に「覚悟伴う決定」求められる
東アジアで米軍のプレゼンスが低下するなか、尖閣諸島周辺で日中が対峙すれば、史上初めて戦闘行為で自衛隊員の血が流れる可能性がある。1999年の能登半島沖不審船事件で”戦闘現場”に遭遇し、その体験を『国のために*るか』(文春新書)に綴った元海上自衛隊「特別警備隊」先任小隊長の伊藤祐靖氏は、「自衛官に死者が出る」ことの覚悟を国民に問う。
危険な任務に向かう隊員は、たったひとつしかない生命を賭して任務を達成しようとするが、それがすべてではない。祖国が正しいと信じたこと、断じて許容すべきではないと決めたこと、そしてそれを貫こうとする祖国の意思に自分の生命を捧げるのである。だから、命令する側は、隊員の生命を賭してまでなぜ、何を守ろうとしているのかを説明できなければならない。
1999年の能登半島沖不審船事件では、拉致されている最中の日本人を何が何でも奪還するという明確な国家の意思と任務の目的が見えていたが、2015年に成立した安保法制には「背後に米国の匂いを感じる」という声が少なくないし、私も不穏な感じがしている。
自衛隊の出撃とは、国家の命によってなされる武力の発動であって、災害派遣とは次元の違う行為である。それは、国家が国民の一員である自衛官に殺害を命じ、また、殺害されることをも許容させる行為だからである。だからこそ、国家の明確な「なぜ」「何を」「どれだけのリスクの範囲で守るのか」という合理的な目的に基づくものでなければならない。
国家が掲げる目的は、当然ながら国民の意思が大きく反映されたものであり、そうであるならば、懸念されるのは、左の端から右の端まで一気に振れてしまう国民性の存在である。
私の知る限り、アジア各国にはいまだに日本人の感情の激変性を恐れる人達は少なくない。彼らは、日本人はしばらく我慢を重ねるが、ある時をきっかけに、突然、溜まり溜まった不満を爆発させ暴れ出すという国民性に慄いている。
その国民性ゆえ、平時は武力行使を禁じる憲法を尊んでいても、「中国に好き勝手やられている」「日本は泣き寝入りしている」と感じ続けた結果、中国の尖閣上陸か何かのタイミングで、「自衛隊は何をしている」とヒステリックになりかねない。そうなった際に「血が流れるなんて知ったことか。自衛隊をどんどん送り込め」という世論が沸騰することはないだろうか?
法による拘束力とは、非常時における国家意思の前においては極めて脆弱である。1977年のダッカ日航機ハイジャック事件で日本政府は、「人命は地球より重い」として、超法規的措置で獄中の日本赤軍メンバーを釈放して身代金まで与えた。定められたルールや法的手続きを一挙に飛び越えた実例である。
「シビリアン・コントロールが大事」と多くの国民は考えているだろうし、それはその通りだ。しかし、シビリアン・コントロールとは、政府が軍を動かし、その政府を国民の意思で動*ということだ。つまり、どこまでの犠牲を払って、何を、なぜ、守るのかを、国民が感情を抑え、理論的に合理的に自分たちで決めるということだ。
その結果であればこそ、自衛官に生きていたいという本能をねじ伏せさせて死地に赴かせる価値がある。また、そうであるのなら自衛官は胸を張って、誇りを持って、多くのものを諦め国民の期待に応えようとする。そのことをどれだけの日本人が自覚しているだろうか。
安全保障の環境が激変し、自衛隊員の死が現実味を帯びる今日、国民の側に「覚悟を伴う決定」が求められている。
http://www.zakzak.co.jp/smp/society/domestic/news/20170129/dms1701291030008-s1.htm